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CTIC通信第246号:“ミャンマー”私たちの姉妹

2021年04月05日

難民申請者の認定について非常に厳しい判断を行っている日本で、最も多く「難民」として認められているのがミャンマー人だということをどれだけの日本人が知っているでしょう。日本、特に東京には、民主化を求めたために祖国を追われ、難民となったミャンマー国籍の方が多く暮らしています。


撮影者 フリーライター 室橋裕和氏

2月1日の早朝に起きたクーデターに抗議するデモが、世界で最も早く行われた場所は「東京」でした。当日の午後、約千人のミャンマー人が国連大学前に集まり、強行されたクーデターへの抗議と国際社会や日本政府への協力要請を訴えました。ある女性は骨折した足を引きずりながら、ある男性は勤めていたラーメン店の昼休みを利用して、留学生は授業を抜け出してデモに駆けつけました。


撮影者 フリーライター 室橋裕和氏

「私たちは日本社会の中で不安定で低賃金重労働に耐えながら、祖国のより良い未来を思い描いてきました。そのためにたくさんのことを犠牲にしてきました。今回のクーデターは、その『より良い未来への夢』を叩き壊しました。」2004年に来日し、病院の清掃とレストランの洗い場の仕事を掛け持ちしながら難民認定申請を行い、後に在留資格を付与されたAさんは、涙ぐみながら話してくれました。彼女は、ヤンゴン大学大学院修士課程を修了しています。一緒にレストランの洗い場で働いていたTさんは医学部出身だそうです。少ない収入の中から、福祉制度や文化活動が十分でない祖国のために「ドー・キンチー(アウンサンスーチー氏の母親の名)基金」に寄付を続けていましたが、その基金も国軍に抑えられたとのことでした。

昨年から行っているCTICの「緊急食糧支援」に助けを求めたミャンマー人の多くもそのような人たちです。彼らは、居酒屋をはじめ、寿司、焼き鳥、ラーメン、つけ麺、天ぷら、割烹、もつ鍋、焼肉、イタリアン、フレンチ、洋食と、あらゆる種類の飲食店で働いています。何の準備もないままに祖国を逃れて来た彼らにとって、常に求人のある飲食店の裏方は、日本語ができなくても従事できる都合のいい職場でした。しかし、コロナ禍で打撃を受けたのは、何年たっても、難民に認定された後も、その仕事を「アルバイト」の条件のまま継続させられていた人たちでした。

SNSでミャンマーの青年が日本語で訴えかけています。「私たちは毎日怯える、脅かされる生活には決して戻りたくないです。貧しい教育制度、悪い健康環境に戻りたくないです。海外で安い給料で出稼ぎの仕事はもうしたくないです。ミャンマー人として堂々と誇りを持って生きていきたいです。」

連日、平和的デモと「不服従運動」、そしてそれに対する治安部隊の攻撃の激化が報道されています。ヤンゴンの大司教、チャールズ・ボ枢機卿は信徒に向けて「国民全員に平和と繁栄が戻るよう、和解のための祈りと断食を」と呼びかけました。祖国を追われ、祖国を思いながら厳しい生活に耐えているミャンマーの人が多く住む東京、ミャンマーのカトリック教会と姉妹関係にある東京教区、私たちはその一員として、チャールズ・ボ枢機卿の呼びかけにどのように応えるべきなのでしょう。    

大迫こずえ