Activity Report

CTIC通信第280号:私自身の自立のためにも 新参スタッフより

2024年08月02日

ドミニコ会司祭 佐藤 了

「きょうは食糧をもらいに来たんじゃないんです。もう支援は要らなくなったので、その報告と、今まで助けてもらったお礼に」フランス語でそう言いながら、私に向かい合って座る青年は、北アフリカの母国を出て、他の国で働いていた。

日本に来てからは都内の飲食店の掃除で日銭を得ていたが、最近自転車を買うことができて、それで外食の配達をはじめたところ、調子がよくて、自力で生活できる見通しが立ったと言う。静かに語る若者の顔は微笑み、安堵しているよう。彼の状況が前進したことはもちろん、何より律儀に礼を言いに来てくれたことがうれしい。赤いバラ一輪を感謝のしるしに。

困窮している外国人への食糧支援と言っても、いわゆる「難民」にまつわることばかりではない。この青年のように「普通に働きたくて」日本に来た外国人が自活できるまでのサポートも含め、ケースはさまざま。原則は、諸方面からのCTICへの寄付で支援物資をまかなうこと。もちろん、彼のように順調に「卒業」していくケースばかりではない。むしろ、相手の状況を客観的に鑑みて、スタッフ側から支援を打ち切るべき場合も少なくない。それでも、目の前の誰かが「飢えているなら食べさせよ、渇いているなら飲ませよ」という基本姿勢は変わらない。判断は容易でないとしても。

そして、支援を求めてくる圧倒的多数は、カトリック信者でない人々。「普遍的な教会」の機関だからこそ、すべての人に開かれているのは当然と言えば当然だが、私個人に葛藤がないわけではない。ただでさえわずかな私の力量、せめて教会の直接的な奉仕に集中すべきでないか。日本人のカトリック信者・求道者のための司牧・説教に、自分の時間とエネルギーを注ぐべきではないのか。それが小さな私の受けた召し出しではないのか……。しかし、組織の内側でしか働かないなら、その働きは必ず行き詰まる。「外なるもの」と接しない制度は、間違いなく腐敗する。それは宗教も国も、そして個人も同じ。

週一回のお手伝いをしているに過ぎないが、私のCTICでの体験は、日本人信徒を対象にした奉仕にも、厚みを与えてくれるだろう。同時にとても大切なのは、ここのスタッフである信徒、修道者、司祭らと、兄弟姉妹としてともに遣わされているのを認識すること。そしてさらに、それを通して、カトリック教会関係者が陥りがちな、独善的な「社会的取り組み」に対して、より現実の地に足のついた意見を持つようにすること。

「あのバラ、うちの修道院の聖堂で、なかなか枯れずにまだきれいに咲いてますよ。」そう言ったシスターの笑顔に、生きたやりがいが顕わされているように感じた。